量子スピン液体物質における新発見 -予測とは異なる1次元的スピンダイナミクスの誘因を解明-
理化学研究所、芝浦工業大学、熊本大学
理化学研究所(理研)開拓研究本部 上野核分光研究室の大島勇吾専任研究員、古崎物性理論研究室の妹尾仁嗣専任研究員(創発物性科学研究センター量子物性理論研究グループ専任研究員)、加藤分子物性研究室(研究当時)の加藤礼三主任研究員(研究当時、現理研研究政策審議役)、仁科加速器科学研究センター核構造研究部の渡邊功雄専任研究員、芝浦工業大学工学部の石井康之教授(多重極限電子物性研究室)、熊本大学先進マグネシウム国際研究センターの圓谷貴夫准教授らの国際共同研究グループは、「量子スピン液体[1]」の状態にあると考えられていた分子磁性体において、これまでの予測とは異なる「1次元的な量子スピン液体」の状態が成立していることを発見しました。
本研究成果は、量子スピン液体の理解に新たな視点を提供し、今後の研究の発展に大きく貢献することが期待されます。
今回、国際共同研究グループは、三角格子を有する分子磁性体β'-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2が、フラストレート(競合)した2次元的な磁気ネットワークを持つにもかかわらず、1次元的なスピンダイナミクス[2]を持つことを観測することに成功しました。この系に特徴的な分子軌道自由度を考慮した第一原理計算[3]に基づく計算手法を導入して実験結果の解釈を行い、幾何学的磁気フラストレーション[4]による競合と分子軌道間の揺らぎがスピンダイナミクスの1次元化を誘発することを示し、「次元の縮小効果(dimensional reduction)[5]」がこの物質の量子スピン液体挙動の起源であることを結論付けました。
本研究は、米国物理学会の科学雑誌『Physical Review Letters』オンライン版(12月3日付)に掲載されました。
画像1:
https://www.atpress.ne.jp/releases/419298/LL_img_419298_1.png
1次元化した量子スピン液体状態のイメージ図
■背景
量子スピン液体(QSL:quantum spin liquids)は、スピンが量子もつれによって絡み合い、通常の磁気秩序が成立しない特異な状態です。QSLではスピンが整列せず、動的に揺らぎ続けますが、この性質により、スピンの情報が量子もつれを通じて長距離にわたって伝わる可能性があるため、量子コンピュータやスピントロニクスデバイスへの応用が期待されています。そのためこれまでにQSL状態に関する多くの理論モデルが提案されてきましたが、その存在を実験的に確認することは非常に難しく、物質科学における長年の課題となっています。特に、スピンの無秩序な揺らぎは、中性子散乱などの従来の手法では直接的に検出しにくく、代替的な測定手法が求められています。
QSL状態の形成には、幾何学的磁気フラストレーションの存在が鍵となります。特に、三角格子構造ではスピンが反平行に整列できず、フラストレーションが発生します。三角格子構造を持つ物質は、QSLの候補物質として長年研究されていますが、そのスピンの動的な振る舞いは未解明の部分が多く残されています。本研究で注目したβ'-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2は、三角格子構造を持つため、QSL状態が実現している有力な候補物質とされていますが、そのQSL状態の本質については議論が続いており、特にスピンダイナミクスや幾何学的磁気フラストレーションの役割が十分に解明されていませんでした。
■研究手法と成果
今回、国際共同研究グループは、QSL候補物質β'-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2のスピンダイナミクスを明らかにするために、「電子スピン共鳴法(ESR)」と「ミューオンスピン緩和法(μSR)」という、これまでの測定手法とは異なる二つの分光法を用いました。ESRは、物質中の電子スピンの挙動を調べる技術で、スピンの異方性やダイナミクスを詳細に分析することができ、μSRは、素粒子ミューオンを使ってスピンの揺らぎや緩和時間を測定し、非常に高感度でスピンダイナミクスを追跡できる手法です。
これら二つの分光法を駆使し、β'-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2の電子状態を詳細に調べたところ、この物質が三角格子による2次元的な磁気ネットワークを持つにもかかわらず、1次元的なスピンダイナミクスを示しました。例えば、ESR線幅の角度依存性は三角格子内のある特定の方向に線幅の増大が見られ、1次元スピン鎖で観測されるような1次元スピン拡散による角度依存性を示します(図1左:黒線)。一方で、μSR緩和率の磁場依存性も典型的な1次元スピン拡散を示します(図1右:赤線)。
画像2:
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図1 β'-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2のESR線幅およびμSR緩和率の振る舞い
(左図)磁場方向を三角格子内に回転させたときのESR線幅。結果が一般的な線幅の角度依存性(緑線)とtr方向の1次元スピン拡散(黒線)の足し合わせ(青線)でフィットできる。
(右図)μSR緩和率の磁場依存性。赤実線と青点線はおのおの1次元および2次元スピン拡散で予想されるμSR緩和率。
本来、1次元スピン拡散は磁気的相互作用が一番強い方向に現れるはずですが、ESRが示した拡散方向はこれまでの理論計算から三角格子内で相互作用が最も弱いとされていた方向でした。そこで密度汎関数理論(DFT)[6]に基づいた第一原理計算と分子の多軌道性を考慮した有効モデル解析を組み合わせた新たな計算手法を導入しました。この計算により、1次元的なスピンダイナミクスの方向が実験結果と一致することが確認され、幾何学的磁気フラストレーションによる競合と分子軌道間の電荷揺らぎがスピンダイナミクスの1次元化を誘発していること、すなわち「次元の縮小効果(dimensional reduction)」がこの物質の量子スピン液体挙動の起源であることが明らかになりました。
■今後の期待
本研究成果は、量子スピン液体の理解に新たな視点を提供し、今後の研究の発展に大きく貢献することが期待されます。特に、幾何学的磁気フラストレーションによるスピンダイナミクスの1次元化現象や、新たな理論と計算手法を用いたその解釈は、他の量子スピン液体候補物質にも適用可能であり、今後の基礎研究において重要な進展をもたらすと考えられます。
さらに、量子スピン液体の特異な性質は、量子コンピュータやスピントロニクスデバイスなど、次世代技術に応用される可能性があります。今回の研究は、その基盤となる重要なステップであり、今後の技術革新への道を開くものであると考えられます。
■論文情報
<タイトル>
Quasi-one-dimensional Spin Dynamics in a Molecular Spin Liquid System
<著者名>
Yugo Oshima, Yasuyuki Ishii, Francis L. Pratt, Isao Watanabe, Hitoshi Seo, Takao Tsumuraya, Tsuyoshi Miyazaki, and Reizo Kato
<雑誌>
Physical Review Letters
<DOI>
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.133.236702
■補足説明
[1] 量子スピン液体
スピンが規則正しく整列せず、量子もつれによってスピンの揺らぎが長距離にわたって続く特異な状態。この状態では、スピンの秩序が存在せず、スピンの多数の量子状態が重ね合わさっており、強磁性や反強磁性のような通常の磁気秩序が形成されない。1次元スピン鎖の基底状態も量子スピン液体の一つの例として知られており、通常、磁気秩序化が阻害される。
[2] スピンダイナミクス
スピンの動的な挙動のこと。スピンは粒子の持つ量子力学的な性質であり、磁気的な特徴を与える。そのため、スピンダイナミクスは、外部磁場やスピン同士の相互作用、物質の環境などの外的要因から影響を受ける。これにより、スピンの歳差運動(プリセッション)や緩和、揺らぎといった現象が生じる。物質中の電子や原子核のスピンのダイナミクスを調べることは、物質内の磁気的な特性や相互作用を理解する上で非常に重要である。
[3] 第一原理計算
物質の性質を量子力学に基づいて直接的に計算する方法。この計算手法では、実験データや経験的パラメータを用いずに、基本的な物理法則(量子力学の原理)だけに基づいて物質の電子構造や物性を予測する。具体的には、シュレーディンガー方程式やその近似解である密度汎関数理論(DFT)([6]参照)などを用いて、原子や分子の相互作用を計算する。第一原理計算は、物質の電子構造やエネルギー状態、バンド構造、化学反応などを高精度に予測することが可能で、新しい材料の設計や未知の物質の特性解明に非常に有用である。
[4] 幾何学的磁気フラストレーション
スピンが特定の幾何学的配置によって互いに反平行に整列できなくなる現象。この状態は、通常の磁気秩序(強磁性や反強磁性)が成立せず、スピンが整列しないまま揺らぎ続ける「フラストレーション」が発生する。このフラストレーションは、量子スピン液体のような新奇な磁気状態を生み出す原因となり、物質の磁気特性に多大な影響を与える。
[5] 次元の縮小効果(dimensional reduction)
磁気フラストレーションを有する2次元(2D)や3次元(3D)といった高次元の磁気ネットワークを持つ系で、さまざまなスピン状態の競合や揺らぎによって、1次元(1D)のスピン鎖のような低次元系で見られる磁気的な振る舞いが観測される現象である。
[6] 密度汎関数理論(DFT)
物質の電子構造を計算する理論であり、電子の密度分布に基づいて物質のエネルギーと電子状態を予測する。電子密度を計算することで、分子や固体の特性を理解し、化学反応や物理現象を予測するのに効果的である。計算コストが比較的低いため、複雑な分子や物質の電子構造を効率的に予測することができる。DFTはDensity Functional Theoryの略。
■国際共同研究グループ
理化学研究所
開拓研究本部
上野核分光研究室
専任研究員 大島勇吾(オオシマ・ユウゴ)
古崎物性理論研究室
専任研究員 妹尾仁嗣(セオ・ヒトシ)
(創発物性科学研究センター量子物性理論研究グループ 専任研究員)
加藤分子物性研究室(研究当時)
主任研究員(研究当時) 加藤礼三(カトウ・レイゾウ)
(現 理研研究政策審議役)
仁科加速器科学研究センター
核構造研究部
専任研究員 渡邊功雄(ワタナベ・イサオ)
芝浦工業大学工学部
教授(多重極限電子物性研究室) 石井康之(イシイ・ヤスユキ)
ラザフォード・アップルトン研究所(英国)
英国研究・イノベーション機構フェロー
フランシス・プラット(Francis L. Pratt)
熊本大学先進マグネシウム国際研究センター
准教授 圓谷貴夫(ツムラヤ・タカオ)
物質・材料研究機構 ナノアーキテクトニクス材料研究センター
グループリーダー宮崎 剛(ミヤザキ・ツヨシ)
■研究支援
本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業基盤研究(B)「第一原理計算と融合したμSR法の開発と強相関電子系の特異な磁気的基底状態の解明(研究代表者:渡邊功雄、JP20H04463)」「非相対論的スピン軌道結合が拓く有機・無機強相関系の新規交差応答の研究(研究代表者:中惇、研究分担者:妹尾仁嗣、JP23H01129)」、同学術変革領域研究(A)「高密度共役分子集積体の定量的な有効モデル化と特異な電荷スピン結合現象の発掘(研究代表者:妹尾仁嗣、JP23H04047)」、同基盤研究(C)「有機導体における分子配列と磁気秩序の協奏による新規電磁結合現象の探求(研究代表者、妹尾仁嗣、JP23K03333)」の助成を受けて行われました。
■発表者・機関窓口
<発表者> ※研究内容については発表者にお問い合わせください。
理化学研究所
開拓研究本部
上野核分光研究室
専任研究員 大島勇吾(オオシマ・ユウゴ)
古崎物性理論研究室
専任研究員 妹尾仁嗣(セオ・ヒトシ)
(創発物性科学研究センター量子物性理論研究グループ 専任研究員)
加藤分子物性研究室(研究当時)
主任研究員(研究当時) 加藤礼三(カトウ・レイゾウ)
(現 理研研究政策審議役)
仁科加速器科学研究センター
核構造研究部
専任研究員 渡邊功雄(ワタナベ・イサオ)
Tel : 050-3502-3359(大島)
Fax : 048-462-4648
Email: yugo [at] riken.jp (大島)
※上記の[at]は@に置き換えてください。
画像3:
https://www.atpress.ne.jp/releases/419298/LL_img_419298_3.jpg
大島勇吾
芝浦工業大学工学部
教授(多重極限電子物性研究室) 石井康之(イシイ・ヤスユキ)
熊本大学先進マグネシウム国際研究センター
准教授 圓谷貴夫(ツムラヤ・タカオ)
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